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INTERVIEW

すべて実践から学んだ。株式会社中村建設 中村英俊。自分の靴さえ買えなかった苦悩の親方時代を超えて、建設業界に革新をもたらす一人の鳶会社社長の半生

今回は大阪屈指の足場業者、中村建設 中村社長のロングインタビュー。
着実に信頼と実績を重ねて、全国展開を始め、本年2017年には建設業界に革新をもたらすであろう社団法人の設立なども控えていらっしゃいます。
そんな中村社長の若かりし頃、そして危機、大きな転機、師匠との出会い、今後のビジョンについて全3回に分けてお届けします。

  • 「完璧な福利厚生。」
  • 「従業員に仮払いでも個人負担などは一切させない。」
  • 「月給制で、ボーナスは月給と同額が年に2回。」
  • 「食事代を1日1,000円支給(パート・外国人研修生ともに)。」・・・・

これが足場工事会社のことだと知ったら、驚く人は多いだろう。
それを「当たり前のことや」と言ってやりきるのが中村建設社長、中村英俊(42)だ。

その風貌は、世界ランカーのごとく筋肉でしまった体と、長身、精悍な顔立ち、 六本木の街によく似合う、シックな渋いコート姿で、 歯に衣着せぬハッキリとした物言いが印象的だ。

本社を大阪に置きながら、 現在、東京、神戸、愛知県にも支店を開設し その事業は広がりを見せている。
現在の順調な事業拡大からは考えられない 想像を絶する過去を乗り越えて、今の中村建設があるのだが、 今回は、そんな過去に迫ってみたい。

ただ、実際に中村氏がお話しされた内容の6割はカット、 または言葉を濁して記事にさせていただいた。
ここには書けない過激な経験があまりに多かったのだ。

そんな激動の人生の中で、どう感じ、どう前に進んでいったのか、 それをお伝えしようと思う。

現場で先輩にこき使われる日々。それでも耐えられた理由。

中村が建設業と出会ったのは、15歳の頃だ。
高校を退学になり、実家からも追い出され、
ホストクラブの走りである、メンズパブで働いていた。
当時から、長身で筋骨隆々だった中村に合うスーツが店にはなく
自前でスーツを買おうと、日雇いでバイトに行ったのが建設業の仕事だった。

現場の請負親方を紹介してもらい、
親方から「建設業で頑張ってみろ」と声をかけられた。
当時、何もできない初心者の中村に
「お前なら、1日11,000円スタートで日給を払うし、他の手当てもつける。住み込みで働かせてやる。」
と条件を出された。
店や友人宅、時には屋外で寝泊まりする中村にとって、断る理由などあるはずがない。

また、建設現場のすべてが斬新で、現場に出るのが単純に楽しくもあった。
”手に職をつける”といったキャッチフレーズもまだない頃。そんな価値観よりも、
仕事をしてみて、ただ何となく「これやりがいあるな」と感じた。
メンズパブをスパッとやめて、ここから本格的に建設業の門を叩くこととなる。

当時の大阪市生野区・大正区の治安の悪さといったら、言葉にならないものだった。
日常茶飯事に事件が起こる。そんな街の、ガラが悪くて恰幅のいい男たちが仕事現場の先輩で、強力な縦社会がそこには存在していた。
年齢も一番下で、初心者ということもあり、先輩たちからはとにかくこき使われた。

14階建ての最上階。
ロングスパンエレベーターで上がり下りするような場所から、
「ダッシュで10分以内に全員分のジュース買ってこい。遅れたらケツパンや!」

そう言われれば、時間に間に合わなくてもとにかく行くしかない。
エレベーターなんか待っていられないので、猛ダッシュで上り下りする。
こんなことを毎日、10時・15時の休憩のたびにやっており、自分の休憩時間はほとんど取れなかった。

「あれでかなり足腰鍛えられたわ〜(笑)」

と昔を思い出して中村は豪快に笑う。

当時は何もわからない。これが当たり前なんだと思っていた。しかし悔しさと「俺はこいつらを絶対に見返したる」という強い想い、それだけが毎日の仕事の原動力だった。

若さと、強い想いによって仕事はメキメキと覚えていった。
職人になって3年が経ち、仕事にも慣れた頃、
所属していた個人会社が得意先の倒産とともになくなることになり、
中村は給料ももらえないまま放り出された。
そこで一度建設業から離れることとなる。

「お前は協調性がないから、自分でやってみろ」

会社が潰れた後、
工作機械の塗装の仕事をしていた叔父を手伝いに行くことにした。
センスがある!と将来を見込まれたのだが、3か月働いてみて
「工場の仕事は自分に向いていない」ということに気付く。
(後々、この3か月の経験が生きて、現在でも中村建設にて工作機械の塗装事業は残り続けている。)

「俺はやっぱり型枠の仕事が好きやな。せっかく覚えたし。」と思っていた時、
知り合いの元請けさんから連絡をもらう。

その人からは唐突にこう言われた。
「お前は協調性がないから自分でやってみろ」と。
はじめは「は?」としか言葉が出なかった。
「ヘルメットも自分の名前入れてな。歳なんか関係ない、これからは年功序列じゃなく実力主義や。 お前はまだまだ未熟な面もあるけど、これから請負いを必死でやってスキルアップせえ」
と独立を勧められたのだ。

その言葉に背中を押されるようにして、19歳の誕生日に
「中村組」という屋号を出して独立を果たした。

独立したのはいいものの、手元に資金がほとんどない。
ヘルメットも結局名前は入れさせてもらえず、
元請け会社の社長は「若い奴にすぐ稼がせるとボケるから」と
約2年半は全然稼がせてもらえなかった。
人員がいない現場や、やたら経費がかかる現場、平米数が全く伸びない現場ばかりが回ってくる。
鬼のようにかかる経費も全て自腹で泣かされる日々…。
難しい現場でスキルを上げてほしいという意図もあったようだが、
自分的には苦痛で仕方がない。

資金を借りようと思っても信用がなく、
銀行からは借りられない。

親からも叔父からも借金を断られ、お婆ちゃんだけが「孫が頑張るんやったら!」と
快く貸してくれた。
それも何とか分割で返せはしたものの、
お金が苦しい中でも、
月に一度は自分の職人たちを焼肉に連れて行ってやり、
車が傷めば修理が必要だ。
ひどい時には手元に10数万円しか残らなかった。
自分の靴さえ買えない。

「親方って儲かるもんだと思って憧れてたのに、全然ちゃうやん。」
苦しい自転車操業が続き、
「もう次の現場が終わったら一回やめよう。」と心が折れかけていた時、
あの阪神大震災が起こった。

お金の使い方を知らない人間がお金を持つとどうなるか

大震災が発生し、各地で仮設住宅や復興工事が始まった。
中村組は当時30人ほどの職人を抱えていて機動力も抜群だったため、
どこに行っても引っ張りだこだ。
そこから3年ほどは、毎月の返済をすべて終えても
手元に1,000万近く、少なくても600万ほどが確実に残るような状況となった。

震災前の2年半、我慢に我慢を重ね、お金にも苦しめられた人間に、
突如大金がどんどん入ってくる。どこに行っても引っ張りだこで、
みんながチヤホヤしてくるのだ。

どうなるかは想像がつくだろう。

完全なテングだ。

また、当時21歳〜22歳。
会社のお金と自分のお金の区別など全くなかった。 あったらあっただけ全て自分のお金なのだ。 「会社にお金を蓄える」などという考えもなかった。

物欲に走り、ブランド物を買いあさり、
車も年に4回買い換える。
従業員達のために高級なお店を貸切ったりすることも頻繁にあった。

しかし、仕事がずっと順調にあり続けるわけはなく、
復興工事が終わると、単価はストンっと落ちた。


もちろん仕事も無くなる。
これまでは営業しなくても言い値で当たり前のように仕事が来ていたのが、
今度は価格競争で、こちらから「仕事をください」と言いに行かなくてはならない。

仕事は下火になっていき、これまでと同じではやりくりができなくなっていく。
しかし、自分の浪費はやめられない。
「俺ってイケてる!」という勘違いと見栄のせいで、
自分でダメだと分かっていても止められないのだ。

自分の浪費が止められず、
従業員のコストカットに走るという最悪の方法をとったことで、
少しずつ従業員は離れていった。

自分のコンプレックスと向き合う時

復興工事の後、中村組の親会社の事業転換が決まり、
それについて行く気になれず、会社を離れることを決めた。
しかし、機動力もあり、稼ぎ頭の中村が抜けることを
親会社は快く思うはずがなく、激しく衝突してしまう。
他の班への見せしめもあったのだろう、全治2か月の怪我を負わされ、
40人いた従業員もほとんどを持って行かれてしまった。

それでも親会社を抜けようと思ったのには他にも理由がある。
一つは、型枠という仕事に将来性を見出せなくなっていたこと。
もう一つは、自分で仕事を取ってきていないというコンプレックスだ。
親会社から仕事をもらってばかりで、自分で営業をしたことがなかった。

「営業なんてやったことない。でも24歳。厳しい思いしてもイバラの道行ってみよう」
自分の中のコンプレックスを打破するための挑戦でもあったのだ。

自分で仕事をし始めて、まあまあソツなく仕事は進んだ。
少数精鋭で稼ぎも良く、順調だった。

しかし、いつしかこう思うようになる。

「俺のウリってなんや?」
「これなら誰にも負けへん!というものってなんや?」

これまでやってきた型枠なら負けないが、前職を辞めた関係で、もうその世界には戻れない。
今の俺は”何でも屋さん”で、本業の人たちと並ぶと絶対勝てない。
「これ!」という何かに特化したいと思うも、それが何かわからない。
自分が何をしたいのかも分からなくなっていった。

「半年から1年間、旅に出てもいいか?」

従業員たちに相談した。
一度走ってきた足を止め、自分を見つめ直し、
再度自分自身考えるため、いろいろなモノや景色を眺め、
次に進むべく未来を確認するための時間が欲しかった故の選択だった。

従業員たちは、
「俺たちが会社は守ってるんで、行ってきてください」と送り出してくれた。

そこから旅に出て半年後、
得意先会社の懇親会に顔を出した。
快く送り出してくれた従業員たちの表情が、
以前とは少し違っていることにすぐに気が付いた。

懇親会の帰り道。従業員たちからこう告げられた。
「僕らの知ってる社長はホンマに渋かった。でも今の社長はチャラいです。
何が旅ですか。はっきり言ってただの遊び人ですやん。」と。
「そろそろ地に足つけて、僕らと一緒に仕事しませんか?
それができないなら僕ら全員辞めます!
その言葉を聞いた時、パッと目が覚めた。

「これはまずい。」本気でそう思った。

自分が不在だった間、従業員たちはあらゆる方面から引き抜きをかけられていた。
身内の会社からも…。
実際引き抜きをかけられて数名が抜けており、この時点で残っていた社員は3名だけだった。
3名は他の会社へ行かずに残ってくれていたが、周りから「あんなチャラい社長の下にいていいのか?」と焚きつけられていたのだ。

相談したくても相談したい社長はいない。気持ちが揺らぐのも当然だった。
そんな経緯を知り、仕事をせねば!とすぐに旅を取りやめ、現場に戻ることになる。


しかし、常に自分の中で「自分のウリ」が無いという空白は埋められずにいた。

次回は、「現在の中村を作る師匠との運命の出会い。」明日2月8日11時半更新予定です!

 

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